腹水を盆に返すような

子育て、学習、旅行、サッカー観戦の記録

塩屋のミイラ

1丁目の交番から若宮神社に向かう途中のガード下、線路のすぐ下に張られたネットのところにそれはいる。蝉の亡骸がほぼ完全な状態で残っているのだ。庇の役割を果たす線路、蟻の侵入を防ぐネット、そして、風通しの良さ。この場所はミイラにとって、好条件が揃っているのだろう。少なくとも昨夏からは同じ状態だ。もしかすると何年も前からこのままなのかもしれない。大寒波がやってきた今年1月、ミイラは雪に埋もれていた。さすがにもうダメか、と心配になったけれど、雪解けとともに無事が確認できたときには、なんとなくホッとした気分になった。

 このまちに住み始めたのは昨年6月。この1年ほどの間にも、いくつかの建物がなくなり、駐車場に変わるなどしている。儚さの象徴とも言える蝉が、その寿命を終えてもなお、生きた証を残し続けている姿は、人の営みの無情さを一層際立たせているような気がした。蝉のミイラを発見できたのは、子どもと一緒に歩いていたおかげだ。子どもは気になるものがあると、指をさし、時には立ち止まり、気の済むまでそれを眺めている。先を急いでいるときには、勘弁してくれよと思うこともあるけれど、新しい発見を共有できるのは楽しい。

 田仲豆腐店の前を通り過ぎるときには、テンションが上がって片っ端から店先の造作を指さしていた。ある写真のところで指が止まる。写っているのは、ニコニコ笑顔の田仲さん。一緒にライラックの花を見上げているのは、かつて豆腐店の隣にあった喫茶こまどりのオーナーだと、田仲さんが教えてくれた。先日、愛されながらも亡くなってしまったアイドル猫、ナンデスはもともと、こまどりの猫だったとのこと。またひとつ、まちの解像度が上がってゆく。

 大学時代のゼミで、まち歩きのフィールドワークを実施した。神戸のまちを縦に区切り、それぞれのレーンを2,3人組に分かれて練り歩く。最後に各々気になったものを報告しあうというものだ。課題図書として、レス・バックの『耳を傾ける技術』を読み、そこに出てきた「猫の目になって歩く」という言葉がまち歩きの際のキーワードとなっていた。当時の私はこの言葉の意味をうまく理解できなくて、これといった収穫もできないままフィールドワークを終えてしまった。その点、いろいろなものを指差して歩く子どもは「猫の目」になるのが上手だなあ、なんてことを考えていると、ナンデスの目は、どんな景色を映してきたのだろうか、とふと気になった。

 

 

 

覆水を盆に返すように

 ぶぶっ……、っと音のする先には、生まれて間もない子どもが寝転がっている。

 おむつの中で募っているであろう不快感にも関わらず、子どもはにこにこしながらこちらを見つめている。こういうとき、子どもはあまり泣かない。むしろ、おむつ交換を通して、親の手を煩わすことに喜びを感じているふうでもある。何かを伝えたい新生児にとって、泣き叫ぶほかに手段はないはずだ。けれども、この子どもは自身の身に起こる緊急事態を泣き叫んで伝えることよりも、親を弄ぶ方が楽しいといったように見えるのだ。

 子どもの排泄回数や授乳頻度、睡眠時間を記録するのにスマホのアプリを活用している。すると、子どもの1日あたりの睡眠時間は12時間程度だということがわかった。同月齢の赤ちゃんの一般的な睡眠時間と比べてみると、5時間も少ない。寝る子は育つと言うけれど、この子どもは成長という、生きとし生ける全てのものにとっての宿命に、抗おうとしているのかもしれない。

 おむつ交換にはまだ慣れないでいる。少しでも隙を見せると、子どもは容赦なくおしっこ噴射攻撃を仕掛けてくる。その一方で、慌てて穿かせたおむつの隙間から大洪水が起こることもままある。おむつ交換という作業には、事前準備、手際の良さ、正確さ、精神的余裕といった、私の苦手分野が凝縮されているのだ。今回のおむつ交換はなんとか無事に完了した。

 2020年のコロナ禍真っ最中に、香港で生まれた子ども。コロナ禍は、これまでの生活のあり方を変えてしまったというけれど、それよりも私は、同時期に始まった子育てによって、生活はこうも一変させられてしまうのかと痛感させられている。

 正直なところ、これといった趣味もなく生きてきたので、子育てによって生活が一変させられる以前に、大事にしてきたもの、子育てによって諦めなければなかったものなんてものはない。強いて挙げるとすれば、仕事に追われ続けてきた社畜的生活を見直さざるを得なかったということくらいだろう。出産予定日が近づいた時期になると、「子どもが生まれるので、これまで通りの働き方は難しくなります。申し訳ありません」と取引先に言って回っていた。

 コロナ禍の海外生活で迎える初めての出産は大変なものだった。香港政府による厳しい水際措置の下では、両親を日本から呼び寄せるということは叶わなかった。「里帰り出産」も現実的ではない。会社には妻と2人だけの子育てとなることを訥々と説明し、なんとか二ヶ月間の育休を取ることができた。もちろん、子育てに関してはこの二ヶ月でどうにかなるものでもないけれど、これまで仕事に追われるだけだった自身の生活に関しては、この子育てを期に、足を止めて、見つめ直すチャンスなのではないだろうか。

 仕事に追われる日々を過ごす中で、忙しいことを理由に、仕事以外の多くの物事を蔑ろにしてきた。三十路を迎えようとしている自分自身を見つめてみると、子どもの頃に思い描いていた"大人"には程遠い。30歳は「而立」というけれど、自分が今どんなことを考え、どういったことに興味があり、この先何をして、どのように過ごしていきたいのか、ということを自分の言葉で説明することすらできない。何につけても、とにかく知らないことが多すぎる。そう考えていると、ふと、えも言われぬ虚しさが込み上げてきた。

 足りなさすぎるインプットの量をなんとかするには、どうすれば良いのだろう。このままではいけない、とすがるような気持ちで、ブログを立ち上げてみることにした。アウトプットを目的とすることで、何かについて学び、調べる機会を設けてみよう、という安易な考えである。付け焼き刃であることは重々承知の上で、この数年間の空白を埋めるべく、こぼし続けてきた水をお盆に戻すように、ここに綴っていきたいと思う。

 こう思えたのも、このタイミングで始まった子育てのおかげである。おむつ替えを終えた子どもの方を見やると、仰向けの状態で、顔だけをこちらに向けて、にこにこしている。おむつが新しくなって気持ちが良いのだろう。そう思って眺めていると、ぶりぶり……という音とともに、あの嗅ぎ慣れた香ばしい匂いが、再び立ち込めてきた。